1991年ノーベル化学賞

受賞理由

高分解能核磁気共鳴(NMR)分光法の手法開発への貢献

受賞者

リヒャルト・エルンスト
リヒャルト・エルンスト

スイススイス

解説

わたしたちの体や身の回りの物は小さな原子でできています。NMRという機械は、強い磁石とラジオの電波を使って、その原子の並び方をこっそり調べる顕微鏡のようなものです。リヒャルト・エルンストさんは、この NMR をもっとはっきり、速く写せるように工夫しました。映画のコマを増やして動きがなめらかになるイメージです。おかげで、くすりの形を正確につくったり、ジュースの中身を壊さずに調べたりできるようになりました。今、病院の MRI(大きな NMR の仲間)が体の中を写すときにも、この工夫が生きています。

関連キーワード

核磁気共鳴分光法

強磁場中で原子核スピンが示す共鳴現象を測定して分子構造や動態を調べる分析法である。磁場に置かれた原子核はエネルギー差を持ち、特定周波数の電磁波を吸収する。その周波数は化学環境によってわずかに変わるため、ピークの位置が原子の種類や結合状態を反映する。非破壊で液体・固体・生体試料を測定でき、定量性も高い。医療用 MRI は NMR を画像化に応用した装置であり、同じ原理が使われている。

高分解能NMR

磁場均一性を高め、細かな化学シフト差を識別できるようにした NMR 測定。試料は均質な溶液状態にしてスピン平均化を促進し、マグネティックシールドやシムコイルで場ムラを 1 ppb 以下に抑える。これによりピークが鋭く分離し、多重結合や微小相互作用を見分けられる。分子同定・定量だけでなく、立体配置解析や反応追跡にも必須となる。固体試料では MAS(magic angle spinning)と組み合わせることで類似の分解能を得る。

フーリエ変換

時間領域の信号を周波数領域へ数学的に変換する操作。NMR ではパルス励起後の FID をサンプリングし、FFT により一括でスペクトルを得る。従来の逐次掃引法と比べ、測定速度と感度が大幅に向上する。デジタル信号処理の発展に伴い、窓関数やゼロフィリングで分解能・SN 比を自在に調整できる。MRI の k-space 再構成や質量分析 FT-ICR でも同じアルゴリズムが用いられる。

パルスNMR

連続波ではなく短い無線周波パルスで核スピンを一括励起し、その後の時間減衰信号を解析する NMR 手法。パルスの角度、位相、間隔を制御することで、選択的反転、エコー生成、クロスポーラリゼーションなど多彩な実験が可能になる。感度向上と測定時間短縮のほか、緩和定数や拡散係数の定量も容易。複雑なパルス系列は分光だけでなく画像化(MRI)にも応用されている。エルンストの研究はこの分野の礎を築いた。

化学シフト

原子核が感じる電子環境の違いによって共鳴周波数が僅かに変わる現象で、NMR スペクトルの横軸を構成する。シフトは ppm 単位で表され、分子中の各原子の化学的・立体的環境を示唆する。例えば芳香環や電気陰性原子が近いと遮蔽が減少し、高磁場側へシフトする。実験ごとに磁場強度が変わっても ppm 表記のため比較が容易。固体 NMR では CSA(化学シフト異方性)が追加情報を与える。

カップリング定数

隣接または遠隔原子核とのスピン–スピン相互作用に起因する信号分裂の間隔。ヤングヘルツ(Hz)で表され、結合次数やジオメトリーを推定する手がかりとなる。エルンストの多次元 NMR では、J カップリングの相関ピークが縦横に現れ、複雑な分子でも結合ネットワークを読み解ける。溶液より固体の方が異方性効果で幅広くなるが、クロスポーラリゼーションで感度を補える。有機合成や天然物化学で構造決定の鍵となるパラメータである。

多次元NMR

時間軸を二つ以上導入し、相関情報を平面または立体的に表示する NMR 技術。COSY、HSQC、NOESY などが代表例で、結合関係や空間近接を一目で把握できる。2D 以上にすることでピーク混雑が解消し、大型生体分子でも解析が可能になった。測定時間は指数的に増えるが、非均一サンプリングや圧縮センシングで短縮が図られている。エルンストの理論はこの分野の出発点を築いた。

構造解析

分子や材料の原子配置、立体構造を決定する作業で、X 線結晶学、クライオ EM と並ぶ NMR の重要応用。NMR では化学シフト、J カップリング、NOE 距離、残留双極子など多数の拘束条件を使い、計算アルゴリズムで三次元モデルを構築する。溶液環境での動的構造が得られる点が他手法との大きな差異である。薬剤候補のリガンド結合様式やタンパク質折りたたみ機構を明らかにするのに有効。高分解能 NMR の感度向上が解析対象の分子量限界を押し広げた。

タンパク質NMR

同位体標識したタンパク質を対象に、多次元 NMR で主鎖・側鎖の帰属と立体構造を決定する手法。HSQC を中心に 3D 逐次帰属実験を行い、NOESY で空間距離を測定する。溶液中での揺らぎや相互作用をリアルタイムに観測でき、薬物スクリーニングにも応用される。分子量 30 kDa 以上では TROSY やペリデューテッド試料で緩和を抑制し解析範囲を拡張する。エルンストが確立した多次元 FT の概念が直接的な基盤となっている。

核オーバーハウザー効果

異なる核スピン間のクロスリラクセーションにより信号強度が変調される現象で、空間 5 Å 以内の近接を示す距離情報源。NOESY スペクトルの交差ピーク強度から原子間距離を定量化でき、立体構造制約として利用される。溶液中のタンパク質動態や ligand–receptor 相互作用の解析で重要視される。固体 NMR でもプロトンダイナミクスのトレーサーとして応用可能。高分解能・多次元 NMR 技術が効果の観測と解析を容易にした。