1927年ノーベル生理学・医学賞

受賞理由

麻痺性痴呆に対するマラリア接種の治療効果の発見

受賞者

ユリウス・ワーグナー=ヤウレック
ユリウス・ワーグナー=ヤウレック

オーストリアオーストリア

解説

昔、梅毒が脳まで進むと「麻痺性痴呆」という重い病気になり、人びとは治せずに困っていました。オーストリアの医師ユリウス・ワーグナー=ヤウレックは、あえて患者にマラリアをうつして高い熱を出させる方法を試しました。細菌は熱に弱いので、体温が上がると梅毒菌が弱って脳の症状が軽くなりました。熱が下がったらキニーネという薬でマラリアを治療し、患者は回復しました。この方法で多くの命が救われたため、彼はノーベル賞を受賞しました。

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マラリア療法

マラリア療法(マラリオテラピー)は、Plasmodium vivaxなどによる意図的感染で高熱を誘導し、他の疾患を治療する方法です。1917年にユリウス・ワーグナー=ヤウレックが麻痺性痴呆患者に初めて適用し、ノーベル賞を受賞する契機となりました。発熱は免疫細胞の活性化、血流変化、宿主タンパク質の熱ショック応答を通じ病原体を抑制すると考えられています。同療法は梅毒、皮膚結核、慢性関節リウマチにも試されましたが、抗生物質普及後に急速に廃止されました。しかし「熱を医学的に利用する」という概念は、その後の温熱療法や腫瘍ハイパーサーミア研究へと受け継がれています。

麻痺性痴呆

麻痺性痴呆は、梅毒菌が脳と髄膜に慢性感染を起こすことで生じる進行性の精神・神経疾患です。進行すると人格変化、幻覚、運動失調、最終的な認知症と衰弱に至ります。19世紀末から20世紀前半にかけ入院精神病院の重要な死因で、治療成績はほぼゼロに近いものでした。マラリア療法により初めて有意な寛解が得られたことで、「治療可能な精神疾患」という概念が生まれました。現在はペニシリンが確立治療であり、先進国ではほとんど見られなくなっています。

発熱療法

発熱療法は、電気ショックや温浴、化学物質などで体温を人工的に上昇させ病気を治療しようとする医学的手法の総称です。19世紀の観察で、高熱が梅毒やがんの縮小につながる現象が報告されたのが発端でした。ワーグナー=ヤウレックのマラリア療法は、感染症を利用した発熱療法の最も体系化された例といえます。発熱によってサイトカインや熱ショックタンパク質が誘導され、免疫応答が変化することが治療効果のメカニズムと考えられます。近年は腫瘍ハイパーサーミア装置や全身温熱療法の研究が進み、当時の発想が現代技術で再評価されています。

プラズモディウム・ビバックス

Plasmodium vivaxはヒトマラリアの病原体の一種で、比較的致死率が低く周期的な発熱を特徴とします。ワーグナー=ヤウレックはこの性質を利用し、患者の安全性を確保しつつ熱を繰り返し誘導しました。感染後約48時間周期で発熱するため、熱パターンの予測が容易で臨床管理に適していました。当時は生きた血液を用いるしかなく、輸送・感染制御の難しさが医療従事者感染リスクを伴いました。現代ではビバックス株を用いた実験感染研究が続けられており、ワクチン開発や免疫学のモデルとしても重要です。

キニーネ

キニーネはキナの樹皮から抽出されるアルカロイドで、20世紀前半までマラリア治療の標準薬でした。マラリア療法では高熱誘導後にこの薬を投与し、マラリア感染を制御することで総合的な治療効果を確立しました。投与量を誤ると耳鳴りや視覚障害など「キニーネ中毒」を起こすため、厳密な用量管理が必要でした。現代のクロロキン耐性株出現前までは世界中で広く使用され、現在も重症マラリアの第二選択薬として用いられます。キニーネの成功は天然物由来医薬の歴史的代表例とされ、薬理学・植生学双方の重要な研究対象となっています。

トレポネーマ・パリダム

トレポネーマ・パリダムは梅毒の原因となるスピロヘータで、細長いらせん状の形態を持ちます。体温上昇に弱く、42℃前後では増殖が著しく阻害されることが実験的に示されています。麻痺性痴呆では菌が髄膜や脳実質に長期潜伏し、炎症と神経変性を引き起こします。マラリア療法の発熱による抗菌効果は、この温度感受性を利用したものと考えられています。現在ではペニシリンGによる静注療法が標準で、24時間以内に殺菌効果を発揮します。

生物学的精神医学

生物学的精神医学は、精神疾患を脳の生物学的過程として理解し、薬理学や免疫学的アプローチを用いて治療する学問領域です。19世紀後半の研究では精神疾患の原因は不明とされ、治療は隔離や道徳療法に限られていました。マラリア療法の成功は、感染症が精神症状を引き起こし得ること、そして生理学的介入で改善できることを証明しました。これにより「精神医学も内科の一部である」という視点が普及し、後の電気けいれん療法や抗精神病薬の開発につながります。今日の神経免疫学・神経化学的研究は、ワーグナー=ヤウレックの臨床成果を歴史的出発点の一つと位置づけています。

抗生物質以前の医療

抗生物質以前の医療では、感染症に対する有効な化学療法が存在せず、治療は外科的処置や支持療法に限られていました。水銀療法やサルバルサンなどの合成薬はあったものの、副作用が強く治癒率も低かったのが現実です。マラリア療法のように熱や他の病原体を利用する手法は、苦肉の策であると同時に革新的試みでもありました。1940年代にペニシリンとストレプトマイシンが実用化されると、感染症治療のパラダイムは根本的に変化しました。抗生物質前時代の治療法を振り返ることで、医学が直面した制約と創意工夫の歴史を学ぶことができます。