2019年ノーベル生理学・医学賞
受賞理由
細胞による酸素量の感知とその適応機序の解明
受賞者
アメリカ合衆国
イギリス
アメリカ合衆国
解説
私たちの体は呼吸で取り入れた酸素を使ってエネルギーを作っています。けれど運動をしたり高い山に登ったりすると、細胞に届く酸素が少なくなります。2019年のノーベル賞の研究者たちは、細胞が酸素の量を感じて行動を変える秘密のスイッチを見つけました。そのスイッチは「HIF(ヒフ)」というタンパク質で、酸素が少ないときだけ元気になり、たくさんの遺伝子に働くよう命令します。そのおかげで赤血球を増やしたり、新しい血管を作ったりして体は苦しい状況を乗りこえます。この仕組みを利用すれば、貧血などの病気を治す薬づくりにも役立つのです。
関連キーワード
低酸素誘導因子
低酸素誘導因子(HIF)はbHLH-PAS型転写因子で、酸素濃度に応じて数百の遺伝子を調節します。HIF-αサブユニットは酸素依存的に分解され、酸素不足になると安定化してARNTと二量体を形成します。活性化したHIFはエリスロポエチンやVEGFなどの遺伝子のプロモーター上のHRE配列に結合して転写を促進します。この転写プログラムは赤血球増加、血管新生、代謝リプログラミングを通じて全身的な低酸素適応を引き起こします。HIFの過剰活性はがんや慢性炎症疾患に関与するため、阻害剤開発の重要な標的となっています。
プロリン水酸化酵素
PHD1~3はFe(II)と2-オキソグルタル酸を補因子とするジオキシゲナーゼで、HIF-αのODD領域のプロリン残基を水酸化します。反応には分子酸素が直接利用されるため、pO2が低下すると酵素活性が減少し、HIF-αが分解されにくくなります。この特性によりPHDは細胞内の"酸素センサー"として機能し、転写レベルのスイッチングを実現します。人工的にPHDを阻害するとHIF経路が活性化し、腎性貧血を改善するロキサデュスタットなどの医薬品が開発されました。一方で、がん細胞ではPHD阻害や遺伝子欠損が偽低酸素状態を助長する場合があり、適切な制御が重要です。
von Hippel-Lindauタンパク質
VHLタンパク質はE3ユビキチンリガーゼ複合体の基質認識サブユニットとして機能し、水酸化されたHIF-αを選択的に結合します。VHL遺伝子の生殖細胞系列変異は腎細胞癌や血管腫を特徴とするVHL病を引き起こします。VHLが失活するとHIF経路が恒常的に活性化し、血管新生や増殖シグナルが亢進することで腫瘍形成を助長します。構造解析によりVHLは水酸化プロリンと水素結合ネットワークを形成し、高い基質特異性を示すことが判明しました。VHL機能を回復させる小分子やHIF-2αを選択的に阻害する薬剤はVHL欠損がんの新規治療法として期待されています。
酸素センシング
酸素センシングとは細胞が周囲の酸素分圧を計測し、代謝や遺伝子発現を適応的に変化させる能力を指します。哺乳類ではPHD-HIF-VHL系が代表的な分子機構であり、迅速かつ可逆的に応答します。他にもミトコンドリアの電子伝達系やカロチン酸素酵素などがセンシングに関与すると提唱されています。酸素センシングの破綻は呼吸不全、脳梗塞、腫瘍低酸素など多くの病態の背景にあります。研究は高地医学やスポーツ科学から農業分野の作物改良まで、多彩な応用を広げています。
エリスロポエチン
エリスロポエチン(EPO)は主に腎臓で産生され、骨髄に作用して赤血球の分化・増殖を促進する糖タンパク質ホルモンです。低酸素になるとHIFがEPO遺伝子プロモーターを活性化し、血中EPO濃度が急上昇します。この増加によって赤血球が増え、血液がより多くの酸素を運べるように適応します。EPO製剤は腎性貧血の標準治療薬ですが、ドーピングに悪用されることもあるため厳格な管理が必要です。PHD阻害剤は内因性EPOを誘導する新しい治療アプローチとして注目されています。
翻訳後修飾
翻訳後修飾とはタンパク質が翻訳された後に受ける化学的修飾で、機能や安定性を調節します。HIF-αのプロリン水酸化やアスパラギン水酸化は典型的な酸素依存性翻訳後修飾の例です。この修飾によりVHLによる認識やp300結合阻害などシグナル伝達が制御されます。変異や阻害剤によって修飾が変化すると、シグナルの強さや持続時間が大きく影響を受けます。酸素感知系における翻訳後修飾研究は、他の細胞応答経路においても重要な概念を提供しています。
ユビキチン-プロテアソーム経路
ユビキチン-プロテアソーム経路はタンパク質にユビキチン鎖を付加して分解へ導く細胞内品質管理システムです。水酸化されたHIF-αはVHLによってユビキチン化され、26Sプロテアソームで迅速に分解されます。この経路により細胞は不要または有害なタンパク質を効率よく除去し、リソースを節約します。ユビキチン化を阻害する変異や薬物はHIF以外の多くのシグナル伝達に影響を及ぼします。したがってこの経路の選択的制御は創薬における重要な課題となっています。
低酸素応答
低酸素応答は細胞や組織が酸素不足を検出し、生存を維持するために代謝や構造を変える総合的なプロセスです。HIFを中心とする転写制御に加え、mTOR抑制やオートファジー誘導など多層的な経路が協調します。この応答によって筋肉は解糖系依存を高め、腎臓はEPOを分泌し、血管内皮は新生血管を形成します。低酸素応答は癌、虚血性障害、炎症、発生過程でも重要な役割を果たします。システム生物学的解析により、数百の遺伝子ネットワークが時間階層的に動くことが明らかになっています。
血管新生
血管新生は既存の血管から新しい血管が芽生える現象で、発生・組織修復・腫瘍成長に不可欠です。低酸素は内皮細胞からのVEGF分泌を誘導し、周囲の細胞を刺激して血管新生を開始させます。HIFはVEGFやPDGF-Bなど複数の血管新生関連遺伝子を直接活性化します。生理的な血管新生は創傷治癒やスポーツ後の筋再生に役立ちますが、過剰な血管形成は腫瘍の栄養供給を助けるため問題です。抗VEGF療法やHIF阻害剤は悪性腫瘍の血管新生を抑制する目的で開発されています。