アルフレッド・ノーベルが遺したもの

ダイナマイトの発明者が遺言で創設したノーベル賞。その背景と現代的意義を振り返ります。

公開日
2026-04-01
更新日
2026-04-21
執筆
編集部
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ストックホルムから、サンクトペテルブルクへ

アルフレッド・ノーベルは1833年10月21日、ストックホルムで生まれました。父イマニュエルは機械工・建築技師で、1840年代にロシア皇帝政府の仕事を求めてサンクトペテルブルクへ移住します。アルフレッドも9歳のころから家族とともにロシアに暮らし、家庭教師に化学と文学を学びました。十代の終わりには、スウェーデン語・ロシア語・フランス語・英語・ドイツ語の5つの言語を読み書きできたと言われています。

この多言語の素養は、後年の事業にも重く効いてきます。ノーベルはやがてドイツ、フランス、イタリア、アメリカ、そしてスウェーデンに特許と工場網を張りめぐらせた「多国籍事業家」になります。書斎の人ではなく、各国を飛び回り、英仏露三言語で契約書を読む起業家でした。父の事業が不振に陥った1863年にスウェーデンへ戻ると、独立した研究者としての人生が始まります。

ニトログリセリンと、弟の死

彼が取り組んだ素材は、イタリアの化学者アスカニオ・ソブレロが1847年に合成したニトログリセリンです。わずかな衝撃で爆発する、扱い不能に近い液体でした。ノーベルはこれを安全に運び、一定の条件で爆発させる方法を探します。

1864年9月、ストックホルム郊外のヘレネボリ工場で大規模な爆発事故が起こりました。弟エミールを含む5人の命が失われ、隣人の抗議で試験地は湖の上の艀へ移されます。悲劇ののち、ノーベルは珪藻土にニトログリセリンをしみ込ませれば衝撃に耐えることを見いだし、1867年にダイナマイトの特許を取得しました。トンネル掘削や鉱山開発、鉄道建設の速度はここから大きく変わります。事業は欧米に広がり、やがて英仏両国の軍需にも届いていきました。

「死の商人」の誤報

1888年、兄ルートヴィヒがカンヌで亡くなったとき、ヨーロッパのいくつかの新聞は弟と兄を取り違えて「アルフレッド・ノーベル死去」の記事を刷ってしまいます。フランス語の見出しには"Le marchand de la mort est mort"(死の商人、死す)という一行があったと伝えられ、これを読んだアルフレッド本人が自らの遺産の使い道を真剣に考え直した、という物語が広く語られてきました。

ただし、この「死の商人」の見出しが具体的にどの紙面に載ったのかは、現在まで特定されていません。伝記作家や歴史家のなかには、事実そのものを懐疑的に扱う立場もあります。ノーベル自身が残した書簡や草案には、それ以前から遺産をどう社会に返すかを逡巡していた形跡があり、誤報は動機ではなく触媒だった、と見るのが穏当かもしれません。いずれにせよ、ダイナマイトで財を築いた男が「自分の名は何と呼ばれて残るのか」という問いを突きつけられた、という点は揺らがないでしょう。

パリでの遺言、1895年

生涯独身だったノーベルは、1895年11月27日、パリのスウェーデン・ノルウェークラブで三度目にして最後の遺言に署名します。証人は4人のスウェーデン人、文面は自筆、そしてその中身は親族を驚かせるに十分でした。

  • 物理学
  • 化学
  • 生理学・医学
  • 文学
  • 平和

この5分野で「前年において人類に最大の貢献をした人々」に毎年賞を与えよ、と彼は指示します。受賞者は国籍を問わないと明記されました。遺産の約94%、当時の金額でおよそ3,100万スウェーデンクローナがこの基金に充てられる計画でした。翌1896年12月10日、ノーベルはイタリア・サンレモの自宅で脳出血に倒れ、63歳で亡くなります。

遺言は当然のように混乱を呼びました。親族は異議を申し立て、フランスとスウェーデンの税制と法解釈のあいだで基金の所在が揺れ、執行までに数年を要します。初回授賞は1901年、ノーベルの命日である12月10日に行われました。ちょうど新世紀の幕開けと重なるこの日付けは、以後「科学と人文の最高峰の日」として定着していきます。

経済学賞という「六番目」

今日私たちがノーベル賞と呼ぶ分野は六つありますが、経済学賞だけは少し性格が違います。正式名称は「アルフレッド・ノーベル記念経済学スウェーデン国立銀行賞」で、1968年にスウェーデン国立銀行(リクスバンク)が創立300周年の記念に設立したものです。遺言には含まれておらず、初回授賞は1969年、ラグナル・フリッシュとヤン・ティンバーゲンに贈られました。

ノーベル財団はこの賞も一括して運営しますが、公式文書では他の5賞と区別しています。「これはノーベル賞か、それともノーベル賞にちなんだ賞か」という議論は現在もくすぶっていて、ノーベル家の一部は設立当初から反対を表明していました。経済学賞がこのような「第六の賞」として存在していることは、ノーベルという名前のブランド力が持ってしまった重さを、逆に示してもいます。

遺産の現在地

設立から120年以上を経たいまも、ノーベル賞は世界中の研究者や書き手にとっての到達点であり続けています。同時に、三人の共同受賞者という上限、生存者のみという原則、個人を顕彰するという枠組みは、集団研究や学際領域が主役となった現代科学とのあいだで少しずつ摩擦を起こしています。見逃された貢献、後知恵で気付かされる不正義、発表までの長すぎる待ち時間──賞の輝きの裏には、毎年のようにこうした議論が積み重なっています。

それでも、「人類に最大の貢献をした人々」という一行が、ダイナマイトで財を築いた男の最後の仕事であった事実は、考えるに値します。発明家と平和賞創設者、戦争の道具を作った男と、その道具で得た富を人類に返そうとした男──この両立しがたい二つの顔こそ、アルフレッド・ノーベルが遺したものの核心なのかもしれません。

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