奇跡の年、1905年の論文
アインシュタインといえば相対性理論、と思う人は多いはずです。ところが彼の名で授与された1921年度のノーベル物理学賞は、相対性理論ではなく光電効果の発見に対するものでした。その論文は『アナーレン・デア・フィジーク(物理学紀要)』に1905年に発表されたもので、特殊相対性理論や、いわゆるブラウン運動の論文と同じ年に書かれた、有名な「奇跡の年」の四本のうちの一本です。
光電効果そのものはフィリップ・レーナルトが1902年に実験で確かめていました。金属に光を当てると電子が飛び出す。ところが古典的な波動論では説明のつかないことがあって、飛び出す電子のエネルギーは光の強さではなく振動数で決まるのです。アインシュタインはここで思い切った仮説を持ち出します。光は連続的な波ではなく、振動数に比例するエネルギー hν を持つ粒のように振る舞う、と。波動論一色に染まっていた光学に、ふたたび「粒」を呼び戻す提案でした。
委員会の抵抗
1910年代、アインシュタインは物理学賞候補として繰り返し推薦されます。それでも賞は来ません。スウェーデン王立科学アカデミーの選考委員会のなかに、相対性理論という理論そのものを「飛躍が大きすぎる」と見る向きがあったためです。
具体的に名の挙がる反対者のひとりが、眼科医でもあったアルヴァル・グルストランド(1911年医学・生理学賞受賞者)です。彼は一般相対性理論の数学と哲学の双方を手厳しく批判しました。別の委員である化学者のスヴァンテ・アレニウス(1903年化学賞受賞者)も、相対性理論の実証に対しては慎重でした。そしてノーベル候補者の立場にもあったフィリップ・レーナルト──奇しくもアインシュタインの光量子論が説明を与えた光電効果の実験家本人──は、1920年代に入ると相対性理論への反対に、やがては反ユダヤ主義的な論調までを交えていくことになります。
1921年の「留保」
1921年、委員会はアインシュタインを含め、いずれの候補にも賞を与えないと決めました。ノーベル財団の規程では、その年に条件を満たす候補がいなければ、賞を翌年に持ち越せます。この規程が発動された結果、アインシュタインの1921年度物理学賞は1年遅れ、1922年11月に遡って決定されました(同じ1922年度の物理学賞はニールス・ボーアに贈られています)。
授賞理由の文言は慎重に選ばれました。
"for his services to Theoretical Physics, and especially for his discovery of the law of the photoelectric effect"
「理論物理学への貢献、とくに光電効果の法則の発見に対して」。相対性理論という単語は、どこにも現れていません。光量子の粒子性についても直接には踏み込まず、「法則」という中立的な言葉が選ばれているところに、委員会の逡巡と妥協が透けて見えます。
授賞式の欠席、そして日本へ
受賞決定が伝えられた1922年秋、アインシュタイン本人はスウェーデンにいませんでした。日本の改造社社主、山本実彦の招きを受けて、講演旅行のため東アジアへ向かう船上にいたのです。妻エルザを伴い、10月8日にマルセイユを発ったスウェーデン船籍の客船は、日本郵船の北野丸でした。
受賞の第一報は、航海途中──香港と上海のあいだ、あるいはその周辺──で船長から手渡された電報で知ったと伝えられています。日付と場所の細部は資料によって多少ずれがあり、ここでは「航海中に知らせが届いた」と受け止めておくのが安全でしょう。彼は12月10日のストックホルム授賞式には出席せず、代理として駐スウェーデン・ドイツ大使が受け取りました。日本滞在中、アインシュタインは神戸・京都・東京・仙台・名古屋・福岡などで講演を重ね、改造社が支払った講演料はおよそ2,000ポンドとされます。
賞金とミレヴァ
賞金、当時の額でおよそ121,572スウェーデンクローナには、別の物語がついています。アインシュタインと最初の妻ミレヴァ・マリッチの離婚は、1919年に成立していました。その合意書には、「将来アインシュタインがノーベル賞を受賞した場合、その賞金をミレヴァと二人の息子のものとし、スイスの銀行に信託として預ける」という趣旨の条項が含まれていた、と伝えられています。受賞の2年前の取り決めです。
賞が実際に1921年度分として確定すると、アインシュタインはこの約束を履行したとされます。ミレヴァはその資金の一部でチューリヒ市フッテンシュトラーセに家を購入し、息子たちとそこで暮らしました。離婚条項の正確な文面や、お金がどう使われたかの細部には今も研究上の議論があります。しかし、ノーベル賞という個人の栄誉が、相対性理論の共同作業者でもあったかもしれない元妻と二人の息子に、静かに渡されたという事実は動きません。
量子論による、遅れた承認
選考委員会が「安全策」として相対性理論を避け、光電効果だけを授賞理由とした──そう記した書物は多く、実際その通りだったのでしょう。相対性理論はのちに、水星近日点の異常、恒星光の重力による曲がり、重力波検出(2015年)など、幾重にも実証されていきます。
ところが皮肉なのは、委員会が「穏当な選択肢」として選んだはずの光電効果論文こそが、20世紀物理学の地殻変動──量子力学の誕生──の起点になったことです。光は粒でもあるという主張は、ボーアの原子模型、コンプトン散乱、行列力学・波動力学の構築へと連鎖していきます。結果として、1921年度物理学賞はアインシュタインの最大の理論を表向きは避けつつ、その後の量子革命にお墨付きを与えた、という二重の意味を帯びることになりました。ノーベル賞の歴史のなかでも、もっとも屈折した授賞理由のひとつだと言ってよいかもしれません。