1936年ノーベル平和賞
受賞理由
パラグアイとボリビア間の対立の仲介
受賞者
アルゼンチン
解説
1930年代、南アメリカではパラグアイとボリビアという2つの国が「チャコ」という乾いた土地をめぐってけんかをしていました。たくさんの人が戦いで苦しんでいたとき、アルゼンチンの外務大臣だったカルロス・サアベドラ・ラマスさんが間に入りました。ラマスさんは両方の国の代表を集めて「まず話し合おう」と呼びかけ、停戦の約束をさせました。けんかをやめるきっかけを作ったことで、多くの命が助かりました。人と人が仲直りするときに友だちが間に入るのと同じように、国どうしのけんかも話し合いで止められることを世界に示したのです。
関連キーワード
チャコ戦争
1932年から1935年にかけてパラグアイとボリビアがグラン・チャコ地域をめぐって戦った南米最大級の近代戦争。過酷な気候と補給不足で兵士が苦しみ、死傷者は10万人を超えた。石油埋蔵の可能性が火種とされたが、その後の調査では大規模油田は確認されていない。戦争は両国経済を疲弊させ、ラテンアメリカ全体に不安定要因を拡散させた。停戦と和平は第三国による調停と国際世論の圧力で実現した。
南米反戦条約
1933年ブエノスアイレスで採択された条約で、武力による領土獲得の不承認と紛争の平和的解決を加盟国に義務づけた。正式名称は「戦争放棄と平和的解決に関する条約」。サアベドラ・ラマスが起草を主導し、ブラジルやチリなど計15か国が署名。条約は米州機構(OAS)の前身的規範となり、国連憲章第2条4項の先駆例とも評価される。チャコ停戦交渉では本条約を法的根拠として調停委員会が設置された。
善意の仲介
第三者が交戦国双方に対し、交渉の場や手段を提供し、直接的な提案は行わないが対話を促す外交技法。国際法上は調停(mediation)に比べ非介入色が強い。サアベドラ・ラマスは善意の仲介を入口とし、停戦成立後に調停へ段階的に移行する戦略を採った。これにより当事国の主権的立場を尊重しつつ、対面を保った形で折衷案を探らせることが可能になった。善意の仲介は現在も国連事務総長の平和のためのグッドオフィス活動で踏襲されている。
地域的集団安全保障
特定地域の国家が相互防衛と平和維持を制度化する仕組み。米州においてはリオ条約(1947)とOASが代表例だが、その原型はラマスの反戦条約に見いだせる。集団安全保障は「一国への攻撃は全体への攻撃」とみなし、共同で制裁を科す考え方。チャコ戦争後の経験は、地域機構でも十分に抑止と和平仲介が可能であることを示した。欧州のNATOやアフリカ連合(AU)にも影響を与えた概念である。
停戦議定書
1935年6月12日に署名された文書で、チャコ戦争の戦闘行為を即時停止し、監視委員会の派遣、捕虜交換、兵力撤収などの具体的手順を定めた。議定書は南米反戦条約を実施条約として位置づけ、国際連盟にも通報された。履行状況はアルゼンチン、ブラジル、チリ、ペルーから派遣された監視団が現地で確認。このプロセスが順守されたことで、互いの不信感が軽減し、その後の正式和平条約(1938)の締結が容易になった。停戦議定書は分割統治的アプローチではなく、包括的管理を採った点で画期的と評価される。
非承認原則
国際社会が武力によって取得された領土や利益を合法と認めないとする原則。1932年のスティムソン・ドクトリンを経て、ラマスの反戦条約で地域法として定着した。チャコ戦争では、この原則を掲げることで当事国が軍事的現状維持だけでは利益を確定できない構図を作り、停戦受け入れを促した。第二次世界大戦後、国連憲章第2条4項と侵略犯罪概念の発展に連動して普遍化。今日もクリミアや南シナ海問題などで議論の軸となる。
捕虜交換
武力紛争後の人道的措置として、双方が拘束している兵士を同時または段階的に帰還させる行為。チャコ停戦議定書では90日以内の全面交換が規定され、赤十字国際委員会(ICRC)が査察した。捕虜の早期帰還は国内世論の緊張緩和に寄与し、和平交渉への支持を高める心理的効果を発揮する。近代国際法では1929年ジュネーブ条約、現行では第三ジュネーブ条約が交換手続きを整備。人道と安全保障利益を両立させる代表的メカニズムとされる。
国際監視委員会
停戦履行を現場で確認する多国籍チーム。チャコ停戦ではアルゼンチン、ブラジル、チリ、ペルーが兵士と文民専門家を派遣した。委員会は前線境界のパトロール、兵器撤収の立会い、双方からの通報受理などを担当。初期の地域型PKOの先駆けと見なされ、後のOAS平和観察団や国連休戦監視機構(UNTSO)に制度的ヒントを与えた。実地報告は毎週公開され、透明性の高いモニタリングが紛争再燃を抑止した。