1960年ノーベル平和賞

受賞理由

アフリカ民族会議の議長として、南アフリカ共和国のアパルトヘイト(人種隔離政策)に対し、非暴力の方法で最前線に立って闘った功績

受賞者

アルバート・ルツーリ
アルバート・ルツーリ

南アフリカ連邦南アフリカ連邦

解説

アルバート・ルツーリさんは、南アフリカで肌の色による差別をなくそうと頑張ったリーダーです。そこでは「アパルトヘイト」というきまりで、黒人と白人が学校やバスまで分けられていました。ルツーリさんは武器を使わず、みんなで歌ったり歩いたりして「差別はやめよう」と訴えました。その勇気が世界に広まり、ノーベル平和賞をもらいました。友達と仲良く過ごすときも、相手を思いやる気持ちはとても大切だと教えてくれます。

関連キーワード

アパルトヘイト

アパルトヘイトは1948年から1990年代初頭まで南アフリカで法制化された人種隔離体制です。白人政権は人々を「白人・カラード・インド系・黒人」に分類し、住む場所、学校、病院、結婚の相手まで細かく分けました。黒人は土地所有や選挙権を大きく制限され、貧しいバントゥー・スタンへ追いやられました。経済構造では低賃金労働力の供給源として黒人を固定し、資本蓄積を白人が独占しました。1950年代以降、国内外で強い批判が起こり、国連制裁や各国のスポーツ・文化ボイコットにつながりました。最終的に1994年の全人種選挙とネルソン・マンデラ大統領就任をもって終焉を迎えました。

非暴力抵抗

武器を使わずに社会変革を目指す手法で、ストライキ、ボイコット、座り込み、デモ行進などが含まれます。ルツーリはキリスト教倫理とガンディー思想に基づき、この手法を南アフリカの状況に適用しました。非暴力は道徳的優位を保ち国際世論を味方につける利点があります。また、弾圧コストを高めることで政権の正統性を失わせる効果もあります。理論的には権力の源泉を支配ではなく服従の同意に置くジーン・シャープの分析と重なり、多くの市民運動が手本としました。現代でも気候変動運動や民主化運動で広く応用されています。

アフリカ民族会議

1912年に設立された南アフリカ最古の黒人政治組織で、初期は請願や法廷闘争を中心に活動しました。1940年代以降、若手の影響で直接行動へ方針転換し、1952年にルツーリが議長に就任します。ANCは『自由憲章』で多民族民主国家を宣言し、PACや南ア共産党など他団体とも連携しました。1960年代に政府の取締りで地下化し、国外ではルサカ、ロンドンなどにオフィスを置きました。1990年の合法化後はネルソン・マンデラを大統領候補に擁立し、現在も与党として政権運営に関与しています。

人種隔離政策

人種隔離政策とは、法律や行政措置で人々を人種ごとに分離する制度全般を指します。アパルトヘイトはその典型例ですが、米国南部のジム・クロウ法や植民地支配下のパス制度も同カテゴリーに入ります。隔離は公共資源の不平等配分を正当化し、被支配層の社会参加を阻みます。教育・居住・投票権などの差別が世代間にわたり再生産されるため、政策が撤廃された後も構造的不平等が残りやすい点が問題です。国際法上は人種差別撤廃条約やローマ規程で重大な人権侵害と位置づけられています。

シャープビル虐殺

1960年3月21日、南アフリカ・シャープビルで黒人市民がパス法廃止を求めて警察署に抗議した際、警官隊が発砲し69人が死亡、180人以上が負傷しました。この事件は国内外に大きな衝撃を与え、南ア政府は非常事態宣言を発令、ANCやPACを非合法化しました。一方で国連安全保障理事会が南ア問題を正式議題とする転機にもなり、経済制裁論の高まりを促しました。毎年3月21日は国連の『人種差別撤廃デー』として記憶され、南ア国内では民主化後『人権の日』として制定されています。事件は非暴力運動が直面した国家暴力の象徴であり、武装闘争への転換点として歴史的に位置づけられています。

ノーベル平和賞

ノーベル平和賞はアルフレッド・ノーベルの遺言に従い、国家間の友好、軍備縮小、平和会議の推進などに顕著な貢献をした個人・団体に授与される賞です。1895年に設立され、選考はノルウェー・ノーベル委員会が担当します。平和賞だけはストックホルムではなくオスロで授賞式が行われる特色があります。受賞者には金メダル、賞状、賞金が贈られ、国際社会への注目が高まります。ルツーリの1960年受賞はアフリカ人初の受賞として画期的で、南アフリカ問題を世界的課題として浮上させました。